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宙(そら)が遣わす船に乗り 十五

by 森戸 麻子

7.

「つまり、あなたにとっては、ということですが。あなたが間違った時間軸に留まるなら、その時間軸に沿った方向にある未来を選択したのと同じことになります。あるべき正当な時間軸から枝分かれして逸れてしまったほつれ糸です」

「歴史が分岐したパラレルワールドに行くってこと?」

「あなたの視点からはだいたいそのように見えるでしょう。ほつれた糸は不安定なのでその先で因果の矛盾を生じて断絶します。つまり、間違った時間軸に留まれば、早々に世界は終わり、あなたも終わるということです」

「世界が、終わる……」

 説明はなんとなく筋が通っているように聞こえたが、現象として何を思い浮かべれば良いのかはまったくわからなかった。

「ま、そういう選択もありといえばありなんじゃないでしょうか?」天井の声は急に取り澄まして突き放すような口調で言った。「間違った時間軸は不安定ではありますが、完全に崩壊するまでには何年もかかりますから。因果が乱れてゆっくりと死んでいく世界を眺めながら太く短く生きるという選択も、無きにしもあらず、ですよ。先に申し上げた通りあなたのような人は他にもいらっしゃいますし、全員が全員、ほつれの修正を素直に受け入れるわけではありません。あえて、破滅するとわかっている時間軸を選択する方もけっこういますよ。もしかしたら、運が良ければ、世界が終わるよりあなたの寿命が尽きるほうが早いかもしれませんし」

 確かにそうだ。私は思わずちょっと笑った。

 私みたいな人間は明日にでもうっかりと自殺に成功して死ぬかもしれないんだし、五年後に自分がまともに生きているなんてことが、まったく想像できない、世界の終わりよりもよほど想像が付かない。

 世界や宇宙や正しい時間軸が、どうなろうとどうでもいい。

 これ以上生きていて何になるんだろう?

「お伝えすべきことはすべてお伝えしました」天井の声は事務的に言った。「センターへお越しください。ここから西に向かって数キロのところにある、小さい山の頂上です。明星公園という緑地が広がっていて、遊歩道が頂上までつながっています。『船』の形がそこだけ違っているので、それを目印に来ていただければ迷うことはないでしょう。もう一度だけ、ご提案しますが、あなたの巻き込まれている現象は修正をしたほうが良いですよ。お友達との行き違いが起きたのは、時間軸のほつれが原因です。あなたにとって無用な苦痛を生み出している。あなたは深い心の傷を負って、身体にも危険な怪我をされている。こんなことは、間違っていますよ。センターへ来て、修正に協力していただければ、起こるべきでなかった過去を取り消し、未来を変えられます。四次元の視点から俯瞰している我々にとっては、過去、未来、という区別はありませんが、ただ、あなたの経験していることが目に余るエラーとして観測されています。修正をお勧めします。これは強制ではなく、ご提案ですよ。センターへお越しください、なるべく早く、できれば今日のうちに。いいですね」

 私はまたスマホの画面に目を戻していた。見落としていたリッチーの投稿を全部読み終えてから、ふと顔を上げると、天井の声はぴたりと止んでいた。

「何が?」と、私は聞いた。

 静寂。エアコンの回る音だけが乾いた空気を満たしている。

「お友達との行き違いって言った? どういうこと?」

 返事はない。

 リッチーのことだろうか。それしか考えられない。私には友達と言えそうな相手は彼女しかいない。

 行き違いとは? リッチーと私のやりとりが途絶えてしまった今の状況は、時間軸のほつれが原因だというのか。あの日、彼女が約束を守らず、うちに来なかったことに、何か超常的な原因があったということなのか。

 馬鹿げている。そんなはずはない。あれはただの、よくあるミスだ。彼女は夢儚一輪と会う約束をし、私との約束を、おそらくは意図せずすっぽかした。そのことに時空の乱れなど関係あるはずがない。都合の良い妄想だ。私にとって甘く、心地よく聞こえる空想だ。だからこれはやはり、幻聴なのだ。リッチーとの行き違いに傷ついた私が、壮大な作り話をでっちあげ、その空想の中で辻褄を合わせて自分を慰めようとしている。

 私はもう、相当に正気を失いかけているに違いない。失いかけている? まったく楽観的な思い上がりだ。私はとっくに、狂気に満たされている。もう死んだほうが良い。だって私は、この現実世界から切り離され、実質的には既に死んでいるのだから。

 スマホを握りしめてベッドを降りる。コートを着ようとして、その袖口が少し汚れていることに気づいた。目立たない小さな汚れだが、自分の手首の傷口から滲んだものだろうと思うと気分が悪く、また溜息が出た。新しいほうのコートだったのに。本当に何をしているんだろう。

 結局、数年前に買った真っ白なボア付きのコートを衣装ケースの奥から出し直し、そちらを着て玄関を出た。

 日はすっかり暮れている。空は銀色の雲に覆われ、その表面は鈍く光っている。だがその明かりで地上が明るくなることはない。

 アパートの階段を降り、少し大きい通りに向かって大股で歩く。簡単なことだ。確かめればいい。私の幻聴が現実に接続されているかどうか。真実味のない現実と、もっともらしい妄想の境目を、私はずっと渡り歩いて生き延びてきた。今までもそうだ。だからこれが初めてではないし、こんなことには慣れている。

 息が切れるほど早足で進み、ようやく西の空を見通せる場所に出た。

 確かにその方角には、丘があった。地図に記されるほど大きな山ではないが、平地よりはずっと高く、そこだけ天から引っ張られたように持ち上がっていた。

 銀の雲はその頂上の真上だけ、形が違っていた。

 漫画に描かれるようなわざとらしい竜巻の形になり、その尖った尻尾が丘の頂上に触れそうになっている。

 あそこへ行かなければならない。行って確かめなければならない。

 私の妄想が本当に妄想かどうか。剥がれ落ちた現実の破片が、まだ修復可能かどうかを。

 雲を警戒して外出禁止令が出ているので、タクシーは捕まりそうになく、バスもいつ来るかわからなかった。私は明星公園があるというその小山を目指してひたすら歩いた。不摂生を重ねた身体にはその数キロだけの道程もひどく怠くて、苦しかった。なぜこんなことをしなければいけないのだろう。どうして?

 やがて全身の怠さは鈍痛に変わり、腰と、手足の関節が軋むように痛み始めた。汗が噴き出して気持ち悪く服に沁みていく。それなのに身体は冷たく、寒さは増していく。見慣れない景色、まったく知らない道。古い住宅街を貫く細い車道は何度も分岐し、不規則にうねり、この先がつながっているかどうかもわからない。それでもひたすらに、西の空の雲を見てその方向を目指した。

 誰とも、すれ違わない。車もまったく通らない。沈黙して眠った街。家々の窓に灯りが見えることだけが、まだここに生者が暮らしている証なのだろう。いくつかの窓の向こうからは、笑い声や話し声が聞こえた。それらは、私にとっては、雲よりも遠い世界のものだった。

 明星公園は古い緑地だった。柱の錆びた外灯が、池の周りを巡る遊歩道を心もとなく照らす。丘の上へと続く脇道はすぐに見つかったが、長く手入れされておらず、低木の茂みに埋もれかけていた。

 何も考えず登った。何か考えるには疲れすぎていた。身体が痛い。重くて、息苦しい。空を振り仰ぐと、銀色の雲は頭上に圧し掛かるように迫っていた。

 てらてらと輝くその表面は硬質で微動だにしないが、目に見えない力の濁流がそこに渦巻いているように思えた。丘の頂上に向かってその流れは一点に収斂し、吸いこまれるように捻れながら落ちている。まるで竜巻か渦潮の流れを、時を止めて眺めているような。

 恐怖は感じなかった。ただこれは、禍々しく人智の及ばないものだ。確かにそう実感した。これは人の想像が生み出した幻ではない。確かにここにあるもの、この世界にあるもの、ただし決して人の手に届かないもの。天上から、私たちの知り得ない彼方から、不安と混沌を乗せて遣わされた「船」なのだろう。

 足が自分のものではなくなったように動いて、道を登り続ける。銀色の鈍い光が壁のように、私の前に現われ、すべてを包みこもうとしている。

 私は彼らに呼ばれてここに来た。生まれてから今日までずっと、私の経験したすべての大きな出来事とささやかな出来事が折り重なり、より合わされて糸となり、織られて布となり、時間の軸にそって連綿とつながってきた。彼らにとっては、過去と未来を同時に見通せる彼らの目には、私がこれまでに経験してきたものがひとつなぎの織物となって見えている。私が今日ここに来ることは最初から決まっていた、もしくは、永久に決まることはない。巨大な織物を無限に拡大したときに見つかる微小な繊維のかけらが、私の人生であり、そのかけらは常に振動し揺らいでいる。すべての出来事に意味があり、すべての出来事に意味が無い。ただそれらは複雑に絡み合って引き合い、影響し合い、常に無限の可能性に枝分かれして目まぐるしく震えながら、混然一体となり過去から未来へと拡がっている。あらゆる時間のあらゆる出来事が、ここに同時に在る。

 私は何を考えているのだろう?

 なぜ、熱に浮かされた信徒のような言葉で宇宙のことを考え続け、涙を流しているのだろう?

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