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宙(そら)が遣わす船に乗り 十六

by 森戸 麻子

8.

「あなたは本当に、暗示に掛かりにくい人みたいですね」聞き覚えのある甲高い声が言った。

 私の視界は銀色の、鈍く光る霧のようなものに覆われ、目を開けているはずなのに何も見えなかった。

「かなり強力な誘導をしているはずなんですがねえ。まあ、たまにいらっしゃるタイプです。自我の芯が強いのでしょう。他人の言葉に簡単に身をゆだねず、惑わされない。過酷な場で自力で生き残るには大切な力です。しかし集団の中で、秩序ある社会の構成員として暮らすには生きづらいでしょうね」

「あなたは、なんなんです?」私の声は霧に吸い込まれて、まったく響かない。自分がちゃんと声を出せているのかどうか自信がなかった。「結局、ここで、何をしてるの? 誰なんですか、本当は」

「言った通りです。四次元の視点から事象を調整している。あなたが信じようと信じまいと、我々の説明していることもご提案していることも、変わりはありません。嘘や裏はありません。あなたのほつれてしまった時間軸を修正いたしましょう。あなたを分岐点まで戻します」

「分岐点とは?」

「すぐにわかります。今から五歩、前へ進んでいただきます。いいから、疑わずに。理屈を考えないで。ただ足を前へ五回、進めるだけです。あなたは分岐点に立ちます。正しい時間軸を選択し直してください。どちらが正しいかは、そのときに分かります。いいですね。不安でしょうけど、なるべく考えないで。ああ、あなたは本当に、こう言っちゃ申し訳ないですが強情ですねえ。他の方々はこんなに手間取らないんですよ。暗示に掛けて誘導すれば、深く考えず恐れも抱かずに従ってくれる。あなたには本当に手こずらされていますよ。もちろんあなたひとりだけじゃないですが。たまにいるんですよ、あなたみたいな方はね。でもここまで我々にリソースを割かせる方も滅多にいないですよ、本当にね」

 相変わらずごちゃごちゃうるさい声だな、と思った。そんなに恨みがましく言うほどのことなのか。私は確かに性格はひねているだろうが、そこまで言われるほど珍しい人間ではないはずだけど。

「こちらの操作は完了しています。五歩進んで、選び直してください。いいですね。あまり考えすぎずにね。直感で分かりますから。さあ、どうぞ」

「どうぞって言われても……」私の独り言は霧に飲まれていった。

 声はそれきり沈黙している。黙った、というより、存在ごと消えたように感じられた。まるで最初から、存在しなかったもののように。

 私のエラーを修正するために、私にコンタクトを取るための容れ物として用意された仮想の存在だったのだろう。それでも、一抹の寂しさのようなものを感じた。真面目に会話しようとすらしなかった相手なのに。むしろ、だからこそなのか。

 ノイズを与えたくないと言いながら、随分と重要なことを色々喋っていた。私がそれを知ることでこの先の未来がいくつも連鎖的に変わってしまいそうな、様々な情報を。私が「誘導」に掛からず、彼らの思い通りに動かなかったから、やむを得ずということなのか。それとも、時間軸のほつれを修正することで、私はこれまでの会話をすべて忘れるのだろうか。いや、ほつれの修正は私の身体にも記憶にも影響は与えないと言っていなかったか。わからない。五歩進んだらどうなるのだろう。普通に考えれば、単に公園の遊歩道の続きがあるだけなのでは?

 息を止め、一歩踏み出す。足の裏に伝わる感触は、硬く平らだった。遊歩道の続きではない。どこかに、または、いつかに、つながっている。

 信じられない。これは夢なのか、現実なのか。まだ実感できない。夢と割り切ってゆだねることもできない。こうやってずっと疑うから、彼らが手こずったのだろう。だって仕方がない。私はそうやって生き延びてきたのだから。

 ずっとそれが、考え続け疑い続けることが、私にとって当たり前の、私に相応しい生き方だったのだから。

 二歩、三歩。視界は変わらず、霧。足に伝わる感触はつるりとして、磨かれた石のようだ。

 四歩。

 五歩。

 目の前が明るくなった。

 私は自分のアパートの前にいた。冬の昼間。いや、夕方だ。でも、まだ日は暮れていない。

 リッチーの背中が見える。リッチーがアパートの門をくぐり、スマホで何かを確かめながら、二階の廊下へと上がる階段を登っていく。

 私はそのすぐ後ろに立っている。

 追いかけようとしたとき、もうひとつの時間軸が見えた。

 私は明星公園のある丘の頂上に立ち、夜更けの寒さに震えている。銀色の雲は晴れて、静かな月明かりが照らす中、私は来た道を引き返す。アパートに戻り、遅すぎる夕食をとってから寝る。先ほどの続きだ。そちらが正しい時間軸だ。

 私は片道数キロに及ぶ夜中の遠出に疲れ果て、何も考えずに深く眠る。そして次の朝、目が覚めて手首の傷が消えていることに気づく。リッチーとの約束は果たされ、私は傷つかず、「ミトン」のアカウントも失わなかった。正しい時間軸はそうあるべきだ。つまり、本当だったのだ。彼らが、あの天井の声が繰り返した「親切で言っている」「ご提案」という言葉に、噓偽りはなかった。私がリッチーと行き違って絶望して閉じこもったことは、「無用な苦しみ」だった。時空のほつれが引き起こしたエラーであり、起こるべきでない悪夢に過ぎなかった。

 あの「声」は、直感でわかると言っていた。私のこの直感は正しい。夜更けの明星公園に戻り、引き返して寝直すべきだ。あるべき時間の流れに沿って。

 けれども私は今一度、間違った時間軸のほうを見た。日暮れ前のアパートの前にいるほうの私を。

 階段を登って「ミトン」の部屋を訪ねようとしているリッチーを、私は追いかける。駆け寄って、部屋のチャイムを鳴らそうとしていたリッチーを引き止め……そしてどうなる?

 私は理由を付けてリッチーを外に連れ出すだろう。駅前か、それか海岸へ誘う。相変わらず銀色の雲が空を覆っているが、私も彼女も、気にしないはずだ。ふたりで外を散策し、夕食を食べに行く。

 アパートの部屋の中には、約束を破られたもうひとりの私が取り残される。

 私にとっては、過去の「私」が。

 時間軸のほつれ。同じ時間に複数の同一人物が存在してしまうエラー。だから彼らは「私」に声を掛けてきたのだ。私が同じ今年の二月を二重に経験し、未来の私が過去の「私」を混乱に陥らせたせいで、「私」は自傷行為で大怪我を負い、感染症を引き起こして寝込んだ。無用な苦痛。あるべきでない悪夢。ただの、時間軸の間違い、無意味で不要なループだ。

 「私」からリッチーを奪ったのは、私だったのだ。部屋を訪ねようとするリッチーを引き止めて外に連れ出し、そうとは知らせずに約束を破らせた。そして「ミトン」のアカウントのメールアドレスを削除し、パスワードを変えてログアウトさせる。過去の「私」とリッチーが連絡を取って辻褄が合わなくなることを防ぐためだ。私は別名でアカウントを取り直し、リッチーにはそちらが新しいアカウントだと知らせてつながり直す。夢儚一輪。私が名乗りそうもない名前。私が書きそうもないプロフィール。私とまったく似ていない、きっと強く「私」の反感を買うだろう、偽物の新しい私。

 「私」は傷つけられて苦しみ、見かねた「天井の声」が修正を提案する。こんなことをしなければ良い。分岐点に立った時、つまり今、このとき、正しい時間軸を選び、あるべき現実に戻れば良いだけ。

 しかし私は正しい時間軸に背を向け、アパートに向かうリッチーの背中を追う。過去の「私」を、つまり今、ここに来た私自身を、最も手酷い方法で裏切って傷つけるために。

 天井の声は喋りすぎた。僅かな情報でも、与えればそれがノイズとなって大きく未来を変えてしまう。そのこと自体を、私に話すべきではなかったのだ。

 私には変えたくない未来がある。だから私はリッチーに会いに行かなければならない。わけのわからない、無意味で無用な苦しみであっても、それを確かな現実として経験した「私」でなければ……「私」が私に傷つけられ、身体も心もぼろぼろになり、かろうじて生き延びてきた状態で、この「私」でリッチーに会わなければ、彼女は絵を描く決意をしなかっただろう。

 私にはわかっている。私には未来が見える、今この場所から過去と未来が、時間軸に沿って横たわるひとつなぎの織物として見通せる。

 私には絵が描けないから。

 リッチーが「夢儚一輪」に捧げた絵は、私にとっては絶対に得難いもの、愛おしく尊いもので、どうしても代わりの利かないものだった。

 彼女が絵を描く未来を、変えたくない。

 だから私は、もう一度間違った時間軸を選ぶ。未来の私も過去の私も必ず、この分岐点に立つとき、すべてを知りながらこちらを選ぶだろう。

 私は夜の丘に立つ「私」を離れ、夕暮れ前のアパートの前に立つ「私」を選択する。

 リッチーと私に、どれほどの本物のつながりがあるのかは、わからない。彼女とは歳も離れているし、趣味も合わないし、共通の話題もほとんどない。いつまで友達でいられるのかもわからない。来月には飽きてお互いをブロックして忘れるのかもしれない。それでも別に構わない。全部が間違っていても。無用で、先のない、この世の終わりへとつながるくだらないエラーだとしても。

 私にとっての、あるべき未来は変わらない。変えたくない。

 彼女の絵が好きだから、彼女に会いに行った。

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