LOG IN

FAKE

by 森戸 麻子

 雨が降っている。真夜中の雨だ。朽ちかけた木小屋が水気を吸ってみしみしと音を立て始める。白蟻に食い荒らされた北側の壁から、またひとつ、腐った木屑が剥がれ落ちるのが見えた。床にはこうして散った小さな木屑が降り積もり、所々に小さな山を作っていた。

 私は小屋の隅に与えられた寝床に、うつ伏せに身体を預けたまま、顔だけを横に向け、日に日に薄くなっていくその壁を眺めていた。

 雨の夜は好きだった。することが決まっているからだ。

 先生はほとんど足音を立てずに階段を下りてきて、私を一瞥することもなく戸口へ向かった。戸口の脇には太く長い釘が三本、打ち付けてあり、先生と私の外套がひとつずつ、悪魔の抜け殻のようにぶら下がっていた。

 私は先生が外套を着こむ間に、起き上がって靴を履き、戸口へ近付いた。

 雨音がさらに強まっていた。風は無さそうだった。

 小屋の前の道はすでにぬかるんでいた。雲の垂れこめた空は暗く、道の幅もわからなくなるほどの闇。先生の持つランタンの火はしけた空気に揺れ、ひどく頼りなかった。

 ただ、ここは歩きなれた道だった。

 城壁に背を向ける方角、緩い坂を上り続ける道だ。離れれば離れるほど、石造りの城壁の全貌が見渡せるようになる。私はその眺めも好きだった。だから、ときどき立ち止まって振り返った。

 南の門が破られ、大きな風穴をあけられてから四年。平然と移り住んできた竜人たちは夜行性で、夜通しかがり火を焚き、浮かれ騒ぎに興じている。彼らは祭り好きであった。毎月のように、違った奇祭がもよおされる。先月まで街中の窓に見られた黄色い吹き流しのような旗は取り除かれ、今は、中身が空洞になった素焼きの不気味な顔が、家々の窓に並んでいる。今夜はひときわ大きな火が、中央広場に焚かれていた。その広場は、もともとは、教会のあった場所だ。二百年の歴史を持つ美しい建物だったが、竜人たちにとっては石のがらくたに過ぎなかった。

 先生に引き離されていることに気づき、私はまた坂の続きを上った。

 墓地はいつの間にか始まっている。区画はいつも足りていなかった。特にこの四年は、疫病で死ぬ者が多すぎた。墓地はその場しのぎの拡充を繰り返され、いまや丘の上半分をほぼ埋め尽くそうとしていた。ほとんどの墓は、葬式の当日、一度きり大切にされ、その後放置された。その「一度きり」すら、雇った者に任せ、まともに弔わない者も多かった。皆、それどころでなく貧しく、また病んでいて、こうした自堕落なありかたを正してくれる教会も、今はもう無くなった。もうすぐ人々は行き場のない亡骸を道端へごみのように捨て始めるだろう、と先生は言った。そうなれば私たちのこの、雨の夜が来るたびの「仕事」も不要となる。

 雨の夜でなければならない。死体は空気を嫌うから。

 私達は墓場から、見捨てられた亡骸を掘り起こす。

 土を掻き、運び出す、単調な繰り返しの仕事が私は好きだった。先生が何を望んでいるか、手に取るようにわかる。先生は私より頭一つ背が高かったが、その腕は華奢で、力仕事には向かなかった。引き換え、私は若く丈夫だった。いつでも、この仕事だけは、先生のしようとすることを先回りしてとらえ、機敏に動くことができた。

決まり切った手順のある仕事が、私には向いていた。

 掘り進んだ土の底に棺桶の蓋が現れ、私はさらにその縁の土を綺麗に取り除き、ゆっくりと蓋を持ち上げる。

 真っ白な顔。たいていの場合、死人の顔は白かった。

 先生は持ってきた道具を広げ、その場で「処置」を始める。特別な呪文などない。正しい手順があるだけだった。

 屍者はまず、起き上がる。中身のないまま。そして私か、もしくは先生を襲おうとするが、先生が作り物の魂を入れてやると、途端におとなしくなるのだった。

 こうして蘇らせた屍者は、不死身で、よく働く。彼らは働き者だった。

「仕事を与え続けることだ」先生は私に言った。「彼らは常に『何か』をしたがる。何か、人間らしいことを。まがい物の魂は、欠けたものを切望しつづける。自分が本物の人間でないことを知っているのだ。そしてそのことを恥じている」

 私達はその晩、三人を掘り起こした。三人目を出すときは先の二人が働いてくれたので、私はすることが無かった。「処置」をする先生の手順を、横からずっと見つめていた。もう殆どの手順を私は空で言えるほど覚えていたが、先生は私に道具を触らせたことは無かった。

 私達は三人の屍者を先に歩かせ、小屋に戻った。葬式のとき着せられた死装束を脱がせ、麻の服と靴、長い外套、手甲と脛当て、そして目の高さだけに細い隙間のある、筒形の兜を与えた。

 見た目を取り繕うのは、道中で無駄な攻撃をされないためだ。流れ者の騎士とみれば、普通の農民や商人たちは恐れて近付かない。外套の中身が人間であろうと、それ以外のものであろうと、人々にとってさしたる違いはなかった。目を背け、通り過ぎてくれるのを待つだけの存在だ。

 先生は三人のまがい物の騎士に地図を握らせ、地名を教え、道を覚えさせる。屍者たちは話すことはできないが、こちらの言うことは完全に理解できる。生前の個人的な記憶は無いかわりに、彼らは知識や決め事に対してはひたすらに厳格だった。

 屍者たちは無言で旅立った。

 足取りは粛々として、生者のそれと変わりない。借り物の魂を吹き込まれているからだ。目的の街に着けば、新しい主人がその魂を取り外し、代わりに「牙」を与える。魂を失った屍者たちは街中の生者を襲って喰らう。襲われて死んだ生者もまた屍者となり、残った生者を襲う。さながら疫病のように、屍者は蔓延して増殖し、ひとつの城下街が瘴気に覆われて死に絶えるまで三日とかからない。

 竜人のこれ以上の侵攻を食い止めるためだと、先生は言った。私はそれが嘘だと知っていた。先生は頼まれれば誰にでも屍者を送った。ある日はどこかに三人を送り、次の日にはその敵方のために五人を送った。依頼者は人間の領主であったり、竜人であったり、海峡の向こうの怪しげな商人であったりした。自分の配下の街を滅ぼしてほしいと頼む者も、しばしば現れた。先生はすべての依頼に対し、理由を聞かず、言われるがままに屍者を仕立てて送った。

 受け取った金は、教会の再建のために積み立てていると先生は言った。それも嘘だと私は知っていた。先生はごくわずかばかりの、私達の暮らしに必要な金しか受け取らなかった。街をおぞましいやり方で滅ぼしたいと依頼するような連中だから、もちろん、対価が安すぎることに文句など言うはずもなかった。

 先生はいつも無表情だった。苦痛や悲しみから表れる無表情ではなく、心の底から平坦な、無感情な顔だった。だから先生といるとき、私は気楽だった。顔色や、声色や、動作の端々に表れる心を、取り繕う必要が無かった。

街の人々が私達のことを何と呼んでいるか、知っていた。「お面のような親子」。子供達はもっと単純に、お面、と言っていた。

 私には「生前の記憶」が無いから、自分が先生の息子だということをどうしても飲み込めなかった。買い出しは私の仕事だったので、私はたびたび街へ行って顔なじみの店で物を買ったが、皆、私が近づくと急にお喋りをやめてじろじろと私を眺めた。嫌悪の目を向けられるのは私が生者ではないからだと思っていたが、どうやら問題は「生前の私」にあるらしかった。

 生前の私は手の付けられない人間だったらしい。私は脈絡もなく物を盗んだり、弱そうなものを見つけて殴ったり、水路へ叩き落したりしたそうだ。目についたから、気が向いたから、ふと思いついたから、というほどの理由で、気まぐれに暴力をふるい、物を破壊し、秩序を踏みにじった。だから、ことに子供達は私を恐れていた。その頃の私は「悪魔」と呼ばれていて、昼は行き場もなく街をふらつき、夜は帰って父親に暴力をふるっていたらしい。生前の私と父は街の中央、教会の近くの大きな屋敷に住んでいて、荒れた暮らしではあっても見かけばかりは裕福だった。私が死んで以来、それがすっかり変わったのだ。

 今となっては、大人達は口を閉ざしている。たまにお喋りに応じてくれる路地の子供達も、曖昧に笑って言葉を濁す。私はきっと、殺されたのだろう。街の誰かに、もしくは、思いつめた父に、それか、自分で招いたくだらない敵に。私は死んで当然の人間で、生前からすでに人の心を持ってはいなかった。私は、私のために誰かが痛い目に遭い、傷つき、泣きわめくとき、いつもとても幸せそうに笑っていたそうだ。

 生きていたときよりまともになった、というのが、街での私の評判だった。私は、それを言われるたびに奇妙な気持ちで、違うと言い返したくなった。私は、生まれ変わったのではない。元よりまったくの、別人なのだ。だから私は先生のことも、先生と呼んでいた。

 私の魂は作り物だ。作り物の魂は知識と決め事に敏感で、よく覚え、よく働く。「何か」をしたいという渇望、欠けているものを補おうとする強力な望みが、私を秩序立てて動かす。先生は私の望むままに知識を与え、仕事を授けてくれた。

 小屋の二階には先生が屋敷から運び出してきた大量の書物が、壁となり山となって積み上がっていた。私は、端からそれを読んでいった。どんな書物も、どんな文字もどんな図も、私にとっては同じだった。私は休まず、疲れず、同じはやさで読み続けることができた。知らない言葉で書かれているときは、先生に読み方を教わった。私はまもなく、知識の量では先生を追い越した。私の読めない言葉は、先生にも読めなかった。ただ、先生は、読めない言葉があるときにどうすれば良いのかを知っていた。先生は「他の書物を引く」ということ、つまり、複数の書物を見比べて意味を推論する方法を私に教えた。また、よその国の言葉や、見知らぬ文字を読もうとするとき、何から取り組めば良いのかを、私に教えた。学び方を教わった私は、さらにひとりで学び続け、知識を増やし続けた。

 どれほど学んでも、どれほど、知識の上で先生を引き離しても、私にはやはり先生がわからなかった。先生は常にまったくの無表情だった。頼まれるままに死体を蘇らせ、服を着せてどこかへ送り出す。街の人々からは忌避され、無視され、貧しく孤独だった。

 先生はなぜ私を手元に残したのだろうか。道具として依頼者のもとへ送らなかったのは、やはり息子だからだろうか。

 しかし私は、生前の私とはまったくの別人だ。体を借りているだけで、魂は作り物。この世に先生の息子はもういない。私はあの、手の付けられなかったという「悪魔」のような彼の、代わりにすらなれないのだ。そのことは、この術を知り尽くしている先生が一番よく知っているはずだった。

 その晩も雨だった。私達は墓地への坂を上った。私は慣れきった手順に夢中で、油断していた。

 墓標の前を掘り始めてすぐに、鋤を振りかぶった男が襲い掛かってきた。

「俺の妻をどうする気だ! この悪魔どもめ!」

 私が振り返るより先に、先生が割って入った。

 私が男の鋤を取り上げて、打ち倒したあとも、彼は荒い息をつきながら光る眼で私を見上げていた。憎しみと嫌悪のこもった眼だった。

 私は鋤をできる限り遠くへ投げ捨て、血を流している先生を肩に担いで雨の中を戻った。

 蘇らせる屍者が男か女か、老人か子供かなど、気にしたことはなかった。先生は慎重に墓を選んだが、それは単純に死体が新鮮で傷が無いかどうか、空気に触れていないか、虫や害獣に荒らされていないか、与える「仕事」をやり遂げるだけの体格があるかどうか、といった実用の条件に照らしてのことだった。

 まして、それが誰の家族であったかなど。

 この街の人々はもはや、死者にも、その魂のゆくえにも、敬意を払わない。目に見えぬものにかかずらっている暇が無いくらい、貧しく荒んでいた。人の死を悼むような信仰は、奪われ、忘れられて久しい。鋤を持って襲ってきた男にしても、その眼に信仰の光があるようには見えなかった。

「無事か」小屋で目を開けた先生は、起き上がって真っ先にそう言った。

「先生。私は無事です」私は少し驚きながらこたえた。先生の顔に表情が浮かんでいたからだ。それが何を表す顔なのか、私にはわからなかったが、少なくともいつもより目をわずかに細め、口を引き結んで何かに耐えるような顔をしていた。

 その表情は間もなく霧が晴れるように消えていき、先生はいつもの無表情に戻った。

「仕事を終えていない」先生は言った。

「明日でも良いでしょう。今日はもう休まれたほうが」と、私は言った。「明日も、夜まで降ります」

「雨季だな」と、先生は言った。「今年は早い」

「そうですね」

「二階へ」先生は私の寝床から下りようとした。

「まだ、怪我をなさってます」私は押しとどめた。「傷が塞がるまでは、ここでお休みになってください。明日も私がひとりで行ってまいります」

「お前には駄目だ」と、先生は言った。「処置は私がおこなう」

「なぜですか。私にもできます」

「駄目だ」

「なら、死体をここまで持ち帰ってまいります。そうすれば先生は出歩かなくて済む」

「……ああ、そうだな。そうしてくれ」先生はまた一瞬だけ、目を細め、口を引き結んだ。

 先生の傷はなかなか塞がらなかった。先生は平気そうにしていたが、私のほうが不安でたまらなかった。先生が立ち上がろうとするたびに、その傷口がぱっくりと割れて先生がばらばらに砕けてしまうのではないかと、私は恐れた。

 人の体は脆い。健康でいる間は、鞭のようにしなやかで強靭でありながら、壊れ始めると、とても脆い。

 私は先生に必要な書物を二階から下ろし、様々な道具や、机や物入れも、元は私のものだった寝台の周りに揃えた。

 先生は、以前から滅多に外には出かけない暮らしだったから、寝る場所が変わったことと、墓場へ行かなくなったこと以外には、大きな変化はなかった。「仕事」が必要なときは私が墓場へ行き、掘り返した死体を肩に担いで持ち帰った。相変わらず、先生は、処置に必要な道具を私には触らせてくれなかった。

 私にとってひとつの大きな変化は、墓場に行かない夜、つまり、雨の降らない夜、先生の傍に座って本を読むようになったことだった。私の読んでいない書物はまだ山のようにあった。一度読んだものでも、知識が増えてからまた読み返すと違った発見があった。二度、三度。書物と書物の間を、行きつ戻りつ。先生も寝台の上に起き上がって、または寝転んで、大抵は何かを読んでいた。私と先生は、本を読み終えると、そこに書かれていた知識について話し合った。満遍なく大量の書物を読み続けてきた私と、自分の領域に必要な知識を深く汲み上げてきた先生とでは、知識の持ち方が、その奥行きが違っていた。私は先生から教えられることがまだ沢山あった。

 破れた城壁の向こうでは、竜人たちの乱痴気騒ぎが続いていた。先月までの不気味な顔の置物は取り払われ、彼らは、枯れ枝に野菜や小麦粉を練ったものを差して飾り始めていた。

 しかし頻発する疫病の流行りは、竜人とて容赦はしなかった。祭りの勢いは年々衰えている。去年の同じ時期には、この枯れ枝の飾りには色とりどりの輝く粉が吹き付けられ、目に痛いほど眩しかったが、今年はそうした目立つ色付けをされた枝は一握りだった。花火と太鼓を使った威勢の良い祭り囃子よりも、近ごろでは安酒で飲んだくれた竜人たちの、罵声と雄たけびばかりが聞こえる。竜人たちが貧しくなっていくということは、その下で縮こまって暮らす人々もますます貧しくなっていくということであり、この街は、屍者に襲われて滅ぶよりもはるかにゆっくりとだが、やはり滅びつつあるように見えた。

 先生がどうするつもりなのかを、私は知らなかった。私にとっては、どちらでも良かった。私とて何も食べずに動き続けられるわけではないから、街が滅べばもう一度死ぬしかないのだが、そのことについて苦痛や不安は感じなかった。

 ただ、先生が自身の行く末をどう考えているのかは、少し気がかりだった。

「海峡の向こうにはまったく別の国がひらけていると聞きます」

 私はある晩、ひとつの本を読み終わった後、思い切って先生に言った。

「ここにある書物は三十年から五十年前、ものによっては百年前のものです。今現在の、彼の地で栄える知識は、私達が知るよりも遥かに進んでいるでしょう。ときおり依頼者として来る商人も、海の向こうから来る者は皆、洗練されていて、豊かに見えます」

「そうであろうな」と、先生は言った。先生はまた少し、目を細めた。「行きたいのか?」

「ここで『街を殺す仕事』をし続けて永久に暮らすわけにもいきません。いずれこんなことは続かなくなります」

「お前はどこか別の場所へ行っても良いのだよ」先生はそう言ったとき、微かにその口元が笑ったように見えた。「引き止めた覚えは無い。お前のその知識があれば、どこででも生きていけるだろう」

「先生も一緒に」と、私は言った。「私には先生が必要です」

「そんなことはない。私がお前に教えることはもう無い」

「知識のためではありません。私には『動機』が必要だからです」

「動機?」先生は逸らしかけていた目を、さっと上げて私を見た。「何の」

「誰のためでもない、孤独な人生を、生き続けることはできません。先生は仰ったでしょう。まがい物の魂には、仕事が必要だと。『何か』をしたいという渇望が、私を生かしています」

 先生は寝台の上で、読みかけの書物を枕元に下ろしたまま、しばらく何も言わなかった。

 先生の眼に不思議な光が宿っていた。その眼はまるで私を睨むようだった。こんな風に表情を剥き出しにした先生を、私は見たことが無かった。私は先生の灰色の眼と、その中央の大きな昏い瞳をずっと見返していた。見とれていた。

「お前を蘇らせたのは間違いだった」先生はやがて絞り出すような声で言った。「間違いだった」

「別人が蘇ったからですか?」

「違う」先生は目を細め、口を引き結び、両の拳を握り締めた。それから先生はまた口を開いた。「何故なんだ。何故なんだ。これ以上苦しめないでくれ」

「苦しいんですか?」私は、思わず微笑んだ。「何故、苦しいんです? 先生には心など無いのに」

 お面の親子。まさにそうに違いない。魂があっても、人の心を理解できぬ人間もいる。生前の私がそうであり、生前の父がそうであった。

 先生は二度、瞬きをした。私を睨む眼の光が強くなった。

「お前、私の魂を入れ替えたな?」

「殺されてしまいましたから。お守りするつもりでいました。私が、間に合わなかっただけです」

 鋤を持った男に、襲われたのは私だった。先生が咄嗟に立ちはだかったのが何故だったのか、もう永久にわからない。先生は死に、その記憶は失われ、知識だけがまがい物の魂に写し取られた。

「何をした。何故」

「先生のしていた手順の通りです。私にもできました」

「それは、そうだろう。お前にすべてを教えた」

「私にもできました」私は微笑んだ。「そして、私は生きていく動機を得た。私が本当に望む仕事を得ました。先生と共に行くことです」

「作り物だ」先生は押し殺すような声で言い返した。「作り物の魂が自動的に望むことだ」

「無論です。欠けているものを渇望する。私にも先生にも心が無い。それを恥じている。だから、人の心を模倣する。人間らしいことを、しようとして」

「演じているだけだ。無いものを……あるように、演じている」

「そうでしょう。でも、もはや見分けはつきません。心とは、輪郭でしかとらえられないものです。その中心が空虚であっても、誰にもそれを知ることはできない。自分自身にもです」

「そんなはずはない」

「いいえ。先生が蘇って以来、私の暮らしは満ち足りています」

 素晴らしい日々だった。書物を読み、語り合い、知識を深め、交換し合った。何のためにしているかわからなかった、すべてのことに、意味が与えられた。先生の顔に表れるようになった、表情が、眼の光が、手足の隅々に表れる「演じられた」心の輪郭が、私に意味をもたらした。まがい物の魂が、息をし始めた。

 だから私はどちらでも良かった。このまま、ここでも。他の場所でも。

「先生と、共にいます。もう一度死ぬまで」

「私はもう動けない。この怪我は治らない」先生はしばらく考えてから言った。

「それも、海の向こうへ渡れば、別の方法が見つかります。船旅の間だけ、気を付けて運びます」

「向こうに何も無かったら?」

「無いほどに、私達は渇望し、熱心に働くでしょう。違いますか?」

 私は先生の体がばらばらにならないように、木綿の布で何度も巻き、腕と脚を折りたたんで鞄にしっかりと詰めた。

 それから、ぬかるんだ坂を下り、その道を東に逸れ、金色の朝日の照る港に向かって、長く長く歩いて行った。

(了)

OTHER SNAPS